熱田千華子作品集
ボストン美術館の攻防
from Ako  to Ako 
糸井 恵 2006年12月27日


熱田さんをボストンに訪ねる度に一緒に行った市内の名所といえば、ボストン美術館である。初めて行ったのは彼女がボストンに住み始めてすぐの頃で、おそらく一九九七年のことではなかったかと思う。私はその頃、雑誌に美術の記事を書き始めていて、いっぱしのアート専門家気取りだった。本当に知識のある人と一緒に美術館で絵を見て歩くのは楽しい。でもただの「専門家気取り」とは…、熱田さんがどう思ったか。もちろん、彼女は黙って聞いてはいなかった。

ボストン美術館で最も有名なのはヨーロッパ近代名画、印象派だ。我々は意気揚々と印象派のコーナーに行った。1980年代後半のバブル経済の折り、日本人が近代名画を億円単位で買いまくったのは記憶に新しい。というより、私の記憶に新しかったので、ルノワールやモネやゴーギャンの絵を見ながら、私は「この絵が今、市場に出たら○億円は下らない」とか、どこかで読んだ、受け売りの知識を滔々と披露した。しかし、私が気持ちよく話していると、熱田さんはいきなり、思いもつかない行動に出た。近くに立っていたセキュリティのおじさんに話しかけたのである。私を指して、

「彼女はアートにすごく詳しいから、この絵が○百万ドルぐらいするって言うんだけど、どう思う?」

日本にいたときから、彼女がよく見知らぬ人にためらいもなく声をかけるので、私はいつも面食らって、「これが関西人というものだろうか」と思っていた(大阪出身でありながら完璧な標準語を話す彼女は、なぜかそういうときだけ関西弁になるのが常だった)が、ボストンに行ってまで。するとこのおじさん、世界中の観光客が押し寄せる美術館で、奇人変人にいろいろなことを言われるのに慣れているのか、慌てず騒がず、こう答えた。

「そうだねえ、私なんかにはそんな金額、とっても見当がつかないけど、それにしても、毎日何時間も眺めてて、飽きないねえ」

ゴーギャンのタヒチの絵だったと記憶する。これには参った。芸術の価値の根本は、言うまでもないが市場とは関係がなく、いくら眺めても飽きることがない、ということだ。と、このおじさんが思っていたかどうかはわからないが、そのように聞こえた。「ひょっとして、彼女、おじさんに『こう言って』と前もって仕込んでおいたのでは」と一瞬疑ったほど、あまりにドンピシャリな発言。そのときの熱田さんの、してやったりと思っているのを押し隠してすましている表情は、十年近くたつ今でも忘れられない。私は悔しくて、いつか仕返しをしてやろうと思っていたのに、それもかなわなくなった。