熱田千華子作品集
著者紹介

イースト・コースト インターネット暮らし』あとがきより抜粋

    Photograph: Randall Armor
熱田千華子さんは人々が関心を寄せる事象に自ら飛び込み、本当にアメリカを知る者にしか見えないアメリカを書き続けてきた。

『あめりかインターネット暮らし』のエッセイは、時事通信社の「世界週報」誌に、2001年から2004年まで連載された。その後2年の間にイラク戦争は泥沼化し、2期目のブッシュ政権は厳しい局面に立つ。彼女が、そんな最近の状況ををどう見るか、それを読みたいのに、なぜ書いていないのか、いぶかしく思われる方もあるかもしれない。

私も、彼女がどう思うか聞きたい。でも、それはもうかなわない。熱田さんは、2004年8月20日、米国大統領選の只中に亡くなった。サマービルというボストン近郊の町での、不慮の交通事故だった。

彼女をそのエッセイでしか知らない読者も、こんなに生き生きした文章の書き手がこの世の人ではないことに、信じられない思いを抱かれるだろう。彼女を個人的に知っていた私たちも、彼女について過去形で書いていることを不思議に感じる。それから、悲しみでいっぱいになる。

20年以上前に出会って以来の習慣で、私は今でも、何かあると、「このことを、あこ(と、いうのが彼女の、友人の間でのニックネームだった)に話したら、何て言うかしら」と考える癖が抜けない。

毎日のさりげない出来事も、退屈な映画も、彼女と話すうちに、大笑いするほど愉快な会話になる。彼女は純粋な好奇心にあふれていた。熱田さんの連発する「どうして、ねえどうして?」に答えるうちに、話がどんどん広がっていく。彼女の聞き上手ぶりは、ジャーナリストとしての有効な武器のひとつでもあった。

1996年にアメリカに移住してから、熱田さんの文章にはさらに磨きがかかった。それは彼女が、少数民族のアジア人として、様々な人の隣人として、そして、自立した女性として米国で生き、ものを書くという意識を、強く自覚するようになったからだろう。

彼女はよく、こう言っていた。

「アメリカにいると、背筋が伸びるの」

アメリカでは、あらゆる問題に意見を持ち、自己主張しなくては尊敬されない。「その緊張感が気持ちいいの」と。

そう、彼女は背筋の伸びた人だった。私が「あこなら何て言うかしら」と思うとき、心に浮かぶのは、長身の熱田さんが背筋を伸ばし、笑顔を浮かべて颯爽と歩いてくる、彼女を知る人にはおなじみの、あの姿なのだ。

(糸井 恵 2006年7月)


熱田 千華子(あつた・ちかこ)さんの歩んだ道

1965年(昭和40年)1月10日 大阪府豊中市生まれ。大阪府立茨木高校から、ICU 国際基督教大学へ。大学3年の時、交換留学生としてジョージア州メイコンのウェズリアン大学に留学

1987年、男女雇用均等法施行後、初の女性記者として、時事通信社社会部に入社

1996年、渡米。マサチューセッツ州に住み、マサチューセッツ州立大で学ぶ。J・ケネディ事務所での仕事に参加するなどアメリカ生活の基盤作りに励んだ

1998年、ロックポートのオープン・ブック・システム社に入社。全米向けの「もののけ姫」の広告サイトを手掛ける。 その後ブライトンのTWI社に移籍。ウェブサイト・デザイナーとしてタイガー・ウッズのオフィシャルサイト制作に従事

時事通信社発行「世界週報」に『熱田千華子のあめりかインターネット暮らし』のエッセイを執筆していたほか、JIJI EXPRESS誌に書評を連載していた

英語ではマサチューセッツ州グロースターの地元紙「Gloucester Daily Times」、オンラインマガジン「gate39.com」などに英語コラムを連載し、「Dogtown Uncommon」に詩を投稿している

どんなテーマや考え方にも魅力を見出すことができ、常に新しい体験を求めた。特に好きだったのは、熱いお風呂に入ること、グロースターのグッドハーバーで泳ぐなど、水の中にいること。旅行をすること。自転車に乗ること

2004年8月20日午前9時21分(現地時間)、通勤途中に交通事故に遭い、ボストン・マサチューセッツ総合病院で亡くなった。39歳だった