熱田千華子作品集
5年後のナイン・イレブン
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アメリカでは「ナイン・イレブン」と呼び習わされることになった、2001年9月11日の同時多発テロ事件。ニューヨークのシンボルのひとつ、世界貿易センターのツインビルに、ハイジャックされた飛行機が突っ込んだのは、現地時間の朝、日本では夜だった。私は、「映画みたい」と言いながら、テレビを見ていた多くの日本人の一人だ。ニューヨークに本社があるアメリカの雑誌の東京支局に勤めていたので、同僚が大勢現場近くにいる。親しい記者や編集者に電話して無事を確かめたかったが、災害の直後の大事な連絡手段をふさいではならないと思って我慢した。

じりじりしながらテレビを見ていると、国際電話がかかってきた。ボストン郊外に住んでいた、友人の熱田千華子からだった。

「何が起きてるか、日本で伝わってる?」と彼女は早口で聞いた。

「テレビでずっと特別番組を流してる。ボストンはどうなの?」と私が言うと、

「いろんな人に電話しなきゃ。またあとで」とすぐに切ってしまった。というのが、その晩の私の記憶である。短いやりとりだったので、本当にあの当日のことだっただろうかと、やや曖昧な感じが残っている。

貿易センターに突っ込んだ2機は、その日の早朝、ボストンのローガン空港を飛び立った飛行機だった。乗客にはボストンの人が多く含まれていただろうし、町全体が青ざめていただろうと思う。

アメリカ人の価値観を揺るがす大事件が起きたその日の出来事は、その後、ありとあらゆる新聞、テレビ、雑誌で繰り返し報道された。でも私にとっては、熱田さんが書いた「テロ」(2001年10月9日号掲載)のエッセイが、突然、非常事態に直面したアメリカ市民の恐怖が最も身近に感じられる文章だった。彼女は当時、画廊でアルバイトしていて、その日は朝10時前に出勤している。そのときは既に、ハイジャック機がニューヨークの貿易センタービルと、ワシントンのペンタゴンに突入していた。彼女が私に電話してきたのは、「あちこちに市民が集まり、不安そうに話している」様子を見ながら自宅に戻った、現地時間の午後2時過ぎだったようだ。

その後、彼女は、インターネット上でさまざまな関連サイトを行ったり来たりして、その様子を詳しくエッセイに記録する。ニューヨーク・タイムズ紙のウェブ版のレイアウトが、いつもと違って余白が目立ち、写真があるはずの場所が空白になっている。チャットルームには、徴兵されるのではとあわてる若者のコメントも出てくるなどと、今、読んでも緊張感が伝わる。その日はアメリカ中の人が、攻撃にさらされたニューヨークやワシントンにいなくても、恐怖にさらされながら、テレビやラジオにかじりついたり、インターネットで情報を調べたりチャットをしたりして、何時間も過ごしたのだ。

そして、彼女が10月23日号に載せた「反戦」という、次のエッセイを書くまでのわずかの間に、ブッシュ大統領はアフガニスタンへの武力行使を始めてしまった。テロリストとその協力国への戦争という位置づけだった。テロと戦うために軍事攻撃するか、それとも座して犠牲になるか――という単純すぎる二者択一を国民に提示したが、人々がそれを理解し、考える時間を与えたとは言えない。

この紛争そのものは、タリバンを実質的に消滅させて収束したが、これによって、アメリカ国内に、テロから国民を守るためなら戦争はやむをえないという前例を作った。たたいておかなければ、アメリカがテロにやられる、だから自衛の戦争だという理屈だ。それから、イラクが大量破壊兵器を保持しているらしいという疑いがどこからか生まれ、あっという間に、2003年3月のイラク戦争へとつながる。大統領は、その年の5月には早々に「戦闘終結宣言」をしたが、今にいたるまで、本当に戦争が終わったと思っているアメリカ人は一人もいないだろう。軍だけでなく、イラクの民家人の間でも犠牲者は増え続けているし、各国のジャーナリストが誘拐される事件も後を絶たない。その一方、今年の夏にはレバノンでの紛争も起きた。新聞や雑誌には毎号、イラクとレバノン発のニュースや悲惨な写真が載っている。アメリカ人の日常は、戦争が進行中であることが当たり前になっている。

もちろん、忘れてしまったわけではないのはわかる。折りしも、テロ事件から5年の節目にあわせて、事件を題材にしたオリバー・ストーン監督の「ワールド・トレード・センター」や、ハイジャックされた飛行機の乗客の姿を描く「ユナイテッド93」などの映画が公開されている。他にも、マスコミの記念特集が数え切れないほど予定され、人々はまた記憶を新たにするのだろう。

でも、熱田さんが電話してきて、そしてあわてて切ったあの日、9月11日から5年たったのだと思うと、私はなんだか呆然としてしまう。あの直後のアメリカは震え上がっていて、そして、緊迫していた。例えば、2001年のテレビ界における一年に一度の華やかなお祭り、エミー賞授賞式は、もともと9月16日に予定されていたが、テロ事件とアフガニスタン侵攻のため、二度延期され、結局11月に行われた。出演者の女優たちがいつものような派手なドレスや宝石を控えるなど、戦時下の配慮というものがそれなりにあったのだ。それがどうだろう。つい先日行われた今年のエミー賞授賞式は、報道で見る限り、華やかさでいっぱいだったようだ。

芸能界ばかりではない。人間は環境に適応する動物だが、この、戦争への慣れには、熱田さんが観察していたインターネットの力もあるような気がしてならない。人々のネット依存度はどんどん進み、またその使用方法も、ネット会社が提供するサービスもさらに洗練されたものになった。多くのアメリカ人が毎朝、ネットに常時接続したパソコンに向かう。最初にチェックするのは、メールと、いくつか、お気に入りのブログ、そして、現在の戦況。イラクとレバノンの様子を、カラー写真や地図入りの詳細なレポートで読む。――まるで、昨晩のバスケットボールの試合の結果をチェックするように、毎日のひとこま、日常生活の一部として。

6月末には、ブッシュ大統領が、アメリカ訪問中の小泉首相を伴って、テネシー州メンフィスのエルビス・プレスリーがかつて住んだ豪邸、グレースランドを訪れた。小泉首相はプレスリーのサングラスをかけて、物まねをしたらしい。まだ戦争は続いていて、若者たちが捕らわれたり殺されたりしている。命を落とさなくても、心身の健康を損なって、一生の傷を負って帰国する者も多い。自分たちが「自衛の戦争」という理屈をつけて起こした戦争で人が死んでいる最中に、その当事者国と、熱心な支援国のリーダーが、グレースランドに行って、プレスリーばりのダンスを披露して失笑を買うとは。あの日の時点では、5年たってこんなことが起きているなんて、誰にも想像できなかった。

(糸井 恵 2006年9月8日)