ともすれば殺気立った雰囲気になりがちの社会部で、熱田さんは、1年後輩の私にとって、いつもホッとする瞬間を持ってきてくれる存在だった。
男ばかり約40人のむさくるしい部署。デスクの上には吸殻がうず高く積もった灰皿とポルノカレンダー。大きな事件や事故が起きれば怒声が飛び交う。1987年、男女雇用機会均等法施行で初めて女性記者の採用を始めた当時の社会部は、そんなところだった。当時の部長は社内報の中で、熱田さんへの期待を「社会部に大輪の花が咲きました」と表現した。
周囲の期待以上の大輪だった。警視庁上野警察署(通称6方面)担当のサツ回り記者時代は“パンダ番”で他社を出し抜いてホアンホアンの妊娠をスクープ。出産の予定稿を楽しそうに準備し、生まれた子パンダのユウユウは「本当に美形なのよ」と目を細めていた。
「社会部初の女性記者」という看板を背負わされながら気負うこともなく、明るくフワフワしているように見えながら特ダネをものにし、躍動感あふれる記事でデスクをうならせ、嫌なことがあっても笑い話に変えて周りを笑い転げさせる。いつも前向きなその姿勢に、どれほど助けられたか分からない。
渡米してからの熱田さんは、日本社会のいろんな足かせから抜け出して、前向きな生き方にさらに磨きがかかったように見えた。数年前にもらったメールにこうあった。
ハロー、元気ですか。 おひさしぶりです。あたしは生きているぞ!
生きているぞ!と胸を張って言える熱田さんの生き方を、いつまでも目標にしたい。
(鈴木聖子)